幼少期~大学時代

幼少期〜小学校


久保田勲東京で生まれ、埼玉で育つ。両親が2人とも働いていたため、兄弟鍵っ子で育ち、二つ上の兄の背中について歩き、よくサッカーをし、年上の人と遊んでいた。兄にくっついているだけで毎日楽しく、ワクワク過ごしていた。

母と兄の3人でたまに行くマクドナルドと夜9時から始まる金曜ロードショーをアイス片手に見るのが好きだった。好きだった映画は『となりのトトロ』だ。

小学校でも遊びはいつもサッカー。朝早くから、休み時間も放課後もリフティングやボールを蹴ったりしていると仲間が続々と集まり、試合をする!

毎日同じことの繰り返しのように見える日常でも毎日全く違うことを感じて過ごしていた。例えばリフティングでは、誰かが100回出来た!と聞けばそれに負けられない、と思いひたすらリフティングをした。すべてただ夢中になり、なんともいえない充実感があった。
久保田勲 退屈やつまらないと感じたのは勉強のときだけ。バスケット、ドラクエ、釣りに夢中になっても、少しやると飽きて、サッカーにもどる。

これはいまも同じだ。

サッカーでは好奇心が満たされることはない。
つねにもっと、もっと!と思うのだ。


中学〜サッカーの世界


中学では巣鴨にある三菱養和というクラブチームに入り毎日通った。友達もいろんな所から来るサッカーのうまい人ばかりで、はじめて比べる世界ができた。

中学時代は精神的にとても難しい時期だが、地元と三菱養和の2つの世界があり、サッカーで集まった世界の方が僕には合っていたし、楽しかった。

そこではサッカーがうまかったら偉い、僕はそう思っていた。だからこそ必死にサッカーをやり、地元の狭い世界にいるよりも先を行っている気がして得意な気分になったのだ。

次第に思春期に入り、うまく自分を出せなくなっているのを感じた。女の子に敏感に反応してしまう自分。学校では様々な人間関係があった、いじめや好き、嫌い、恋愛。

人間関係のストレスを忘れさせてくれ、ありのままの自分を表現できるのがサッカーで、三菱養和はそのサッカーに夢中になれる唯一の場所だった。

中学三菱養和練習風景

国士舘高校時代〜成功体験


中学3年になり高校進学を考える時期になり、できもしない勉強を一生懸命やった。でもテストの点は良くならず。たまたま受けたサッカーのセレクションで合格!スポーツ推薦という形で『国士舘高校』に入学することができた。

好きなサッカーで高校に入れるなんてラッキーだと思ったが、どこかで勉強して苦労している人に対して罪悪感のようなものも感じていた。

いまの自分のサッカーのベースは、高校の監督の影響が大きい。

1年、2年と試合に出してもらい、偉そうにプレーし、3年では国体にも選ばれて東京代表、最後の高校選手権でも東京代表となり国士舘高校として、全国大会初出場を果たすことができた。そこで全校の注目を集めたのも大きな成功体験だった。

2001年高校サッカー選手権 全国大会 国立競技場
それまでの元々の身体能力で勝負する世界から、高校では努力して力を身につける楽しさを知る。練習するとうまくなる、うまくなると試合に出られる、試合に出られると楽しい。そのサイクルにはまったのだ。

自分がうまくなりたいと思うことはこれでもかと、夢中になって練習した。

ただ、苦労したのは練習相手を見つけることだ。人間関係が得意ではなかったため、誰とでも気兼ねなくボールを蹴れるわけではなく、限られた気の許せる友人の中から、練習に付き合ってくれそうな人を捜した。なにせ自分が納得するまで練習につき合わされるから、目を合わせたら逃げられることも多かったぐらい、熱中していた。

サッカーをベースにしていく情熱と成功体験のサイクルをつかんだのが、この時期だった。

2001年国体東京代表

国士舘大学〜最初のつまずき。


大学時代高校での成功体験のもと、大学では毎日6時間練習することもあった。グランドに人よりも一分一秒でも長くいることが、成功への鍵だと思っていた。高校と違って人数が多い大学では練習相手には困らず、真剣にサッカーと向き合っているうまい仲間と、本気でやるサッカーはとにかく面白い。

しかし、人一倍、いや人の数倍はがんばっているはずなのに、トップチームに在籍したのは1、2年生のときだけで3、4年生のときはBチームにいた。

このころから自分のなかで、楽しかったサッカーが徐々に変化してきた。

「誰よりも努力しているし、がんばっている、練習だって1番やっている。何で試合に出れない、俺はBチームにいなきゃいけないのか?」

いらだちをどこかで抱えながら、ただやみくもに練習時間だけを重ねた。

いま思えばなぜBチームに落ちたか、恥ずかしいくらいわかりきっているが、そのときは気づかなかったし、それを指摘してくれる人もいなかった。

この原因は、なんと27歳の日本を出るまで気づかなかった。

毎日あまりにも苦しく、その苦しさを受け止めきれず、うずまく感情をどうしたらいいかわからず、コーチやチームメイトなどの批判に変えた。そしてその攻撃は、後になって自分へとたっぷり返ってきた。

本田健の『ユダヤ人大富豪の教え』を読んだのもこの大学時代だった。
大学時代
「そんなに辛いなら辞めよう」と決めた。そしたらどんなに楽に楽しくなるだろうと、4年生当時興味があったお金の分野の企業の面接を受けにいき、内定をもらった。

サッカーを辞めると決めたにも関わらず、毎日の習慣は変えられない。サッカーに真剣に向き合ってない日々は、ゴムが伸びきってしまったような毎日で張りがなく楽しくなかった。

そんなとき岡田監督率いる横浜マリノス優勝が優勝した。その華やかな、そして楽しそうな選手の映像が乾いた心につき刺さった。

「やっぱり自分の道はサッカーだ!!」

そう感じた瞬間だった。