プロ選手時代

栃木SC〜夢のプロへ


なんとかサッカーで生きる道を探すため、同期が誰もいなくなったが大学でトレーニングし続けていた。その姿を大学の監督が見てくれ「チームを捜してやる!!」と言ってくれた。

そして国士舘大学の先輩が監督をしている当時JFLに在籍していた『栃木SC』へ、紹介で入団することとなった。道を開いてくれた監督には心から感謝している。

開幕戦のFC琉球戦をスタンドでみて本当にワクワクした。

栃木SCでの1年半は、アマチュアとして、人材派遣会社で日雇いのバイトをしてから練習。働く時間を出来るだけ少なくして、その分サッカーに時間を使った。お金がかからないように節約し、いずれ海外に出るために、少ないなりに貯金もした。

当時はサッカーできる喜びや、未来に対してイメージが明確だったから辛いと思わず、楽しかった。教員に空きが出て、高校や中学校の先生としても働いた。

栃木SC教員として
そしてチームがJリーグを本格的に目指すため、プロ化した。

このとき僕はプロ選手となり、夢であったサッカーで飯を食う!ライフスタイルになった。朝から晩まで1日サッカーをしていい、好きなサッカーだけの生活は最高だと感じた。

だが、次第にプロというものがどんなものか、わかってきた。練習環境や条件の向上、メディアへ出ることも増え、注目度はグッと上がった。一方、練習への集中力、パスの質、そして何よりプロフェッショナルとしてのメンタリティが一番求められた。

それを感じれば感じるほど、本物のサッカー選手としてやっていけるのだろうが、だんだんとサッカーを楽しめていない自分もいた。

2006年栃木SC1
試合では怖れから力を発揮しきれないこともあったが、怖いという感情は無視した。そんなものを感じていたら、やっていけないからだ。いまでは、そう思い込ませていたことがよくわかる。

それよりも、自分の未来にワクワクすることにエネルギーも向いていたのだ。

さぁこれからだ!!と

そこでは、素晴らしい監督に出会いサッカーとはどんなものなのかを教えてもらい、僕自身のサッカーの質がグンと上がった。これから先もこの時学んだサッカーは僕もベースになっていくだろう。

人との出会いが自分の人生に大きな影響を及ぼすのをまざまざと感じた。

栃木SC

ニューウェーブ北九州


栃木SCはJ2昇格に昇格したが、残念なことに僕自身ほとんど貢献できずに終わってしまい、解雇となる。

まだまだこれからだと、北九州のチーム(現・ギラバンツ北九州)のセレクションを受け、監督が僕のプレーを気に入ってくれ、入団することとなった。

J2の一つ下にあるJFLで中間のチームで、本気でJリーグ入りを目指すための選手を獲得していて、僕に用意された条件も良かった。チームに入ると監督が僕のことを気にいって取ってくれただけあり、とても信頼してくれた。

僕は栃木で感じた悔しい思いや、それまで学んだことを思う存分発揮しようと思っていた。長いリーグ戦が始まる前は、チームも僕も調子がかなりよく、これならいけるという感覚もあった。

ニューウェーブ北九州2009 しかし、いま思えば何も見えていなかったのだろう。リーグ戦が始まって5試合目まではスタメンで試合に出場。でもその後はまるっきり試合に出られなくなり、リーグの中盤以降はメンバーにも入らなくなっていた。監督との信頼関係は、あっさり崩れた。

なぜなら、僕は栃木SC時代の監督と北九州の監督を比べ、前者はもっとサッカーについていろいろ知っていたと、前者に習ったサッカーが正しく、後者のサッカー観は間違いだと思ってしまったのだ。自分の中の批判がすべてに現れた。

感情をあらわに監督にぶつけ、ことあるごとに相手や周りを批判していった。仲間からもそれがマイナスになっているとメッセージをもらっていたにも関わらず、当時は受け入れることが出来なかった。

こうした人間関係のつまずきから、1年の3分の2は試合に出られないシーズンを通して、眠れなくなったり、体調が悪くなったりと、負のエネルギーはものすごく北九州で貯まった。それでもなんとかがんばること、人一倍練習することで自分を支えた。

がんばらない、休むという選択肢はなかった。

2009年11月30日に戦力外を告げられると、車に荷物を詰め込み、実家の埼玉にフェリーで帰った。半分死んだような状態だった。肉体も、心も。

実家で家族の暖かさに触れて少しずつ回復すると、日本ではもうやることはない、後は海外だ!!このままでは終われない!!という思いがものすごく強くなった。礼儀もなく図々しく知り合いの知り合いを探り、どうにかタイへのツテを見つけた。

やっとの思いでたどり着いた海外への挑戦、しかし現実は思い描いていたものとはまったく違った。


初めての海外。タイ


タイ練習風景
タイに渡って、最初に驚いたのはプロ意識のなさ。楽する練習や八百長。日本とはあまりにも違う、サッカーに向き合う姿勢のなさに苛立った。

でも自分には後がないと、もうタイがダメだったらサッカーは辞めるしかないと思うほど追いつめられていたからだ。

タイはよく言えば微笑み国の住人、マイペンライの何とかなる精神。これはタイの洪水があったときに笑っている人や、悲観的にならない人を見て、心から感心した。

反面、約束が成り立たないような、いい加減な性格が、当時の僕にとってはホントにきつかった。しかし運がよく契約に至り、半年間の契約とした。

今では経済のあおりを受け、うなぎ上りのタイサッカーも、当時は、給料はだけが良く、Jリーグが開幕した時のように、サッカーのレベルはそんなに高くないが、国民は盛り上がり、お金があるから素晴らしい外国人選手が集まる状況だった。

タイタイでは、自分の中にあった人生のルールが全てひっくり返った。

それまで、僕自身これが正解、これが間違いと全てに置いて判断し、タイに行ったことによって自分のそのルールが間違っていることに気づいた、というか正解はないのだと知った。

言葉の通じない毎日、寝る所、シャワー、ご飯、移動。何をするにも誰かに助けを求めざるを得ない。そのことによって、自立し、1人ですべてやってきた自分の在り方が変わり、人に助けてもらうことにオーケーを出せるようになるとともに、生きていくことに対して、相当図々しくなった。

日本に帰ってきてからは、今まで出来なかったことがすんなり出来るようになっていた。

タイ僕が海外に出た大きな理由の一つは、経験を積むことだった。

栃木SC時代尊敬していた先輩が、試合に出られないという自分と同じ状況に遭遇したとき、先輩と僕の感情と行動は全く違っていた。先輩は感情的にとても落ち着き、試合には出られなくてもチームのために、自分が出来るベストを尽くしていた。

もう一方の僕は、感情的にとても荒れ、周りと自分を批判。そして行動は自分のみが中心。尊敬する先輩との違いは経験だと感じ、自分ももっと経験を積んだらきっとそうなれると思い、海外に出たのだ。

そしてタイで辛いことがあるとそのことを良く思い出しては、すべては自分で選択したことで、まさにいい経験をさせてもらっているじゃないかと自分を納得させた。

タイタイでも楽しいことは多くあった。試合や練習のたびに応援してくれるファンやサポーター、その人たちとの交流は楽しかった。一緒にビールを飲んだり、ご飯を食べたりしながらの会話。

サッカー談義からくだらないことまでいろいろと話した、言葉がつたない英語でしか話せないぶん他のコミュニケーションの方法、ジェシュチャーや心でコミュニケーションが多くなり楽しかった。タイが親日国ということも大きかったと思う。

タイでの一番の収穫は、どんな状況においても『生きていく力』がついたことだ。どこでもボールがあれば、サッカーできるし、生きていけると知れたのがよかった。

あとは毎日いろいろとあり感情が上下することがたくさんあったがその生きている感じが好きだったんだと思う。

次なる高みを目指そうと思い、タイから直接ルーマニアへ渡った。

けがをしていたが、休み、止まるという選択肢はなかった。

タイでの日々

ルーマニア〜限界。


タイで一緒にトライした仲間の紹介でルーマニアへの道が開けた。ルーマニアではアカデミーという日本で言うサッカー学校に入り、選手のレベルにあわせてチームを紹介されるシステムだった。

ルーマニアの印象は貧しい国というのが第一印象だった。日本人を見たら親が子どもに対してお金をもらってきな、と催促する姿に衝撃を受けた。

ジプシーと呼ばれるホームレスみたいな人が首都のブカレストを離れると多く、道も整備されていない。学校に行っている人も少なく、サッカーを離れたところではコミュニケーションが成り立たないことも多かった。

ルーマニアルーマニアでは4つのチームのテストに行き、パワー、スピードなど、それまで感じたことがないくらい高いことを感じた。ただそれは1部や2部の上の方の話で、2部の下の方や3部になるとレベルは低かった。

外国人枠で契約できたチームは3部でレベルはそう高くなかった。ヨーロッパということもあり、結果を出せばすぐに移籍できる。結果を出して次にステップアップだ!と考えていた。

ここでは、日本で自分がやってきた成功体験とはまったく異なる世界があると知った。

またサッカーボールがあれば、サッカー好きな人とはコミュニケーションが成り立つし、サッカーがうまければ、相手からコミュニケーションを取ってくる楽しさもあった。

自分がやってきた方法と違う方法があると知っても、これまでやってきた成功する方法、つまり人一倍がんばることを手放すことはできなかった。

そして、数ヶ月もするとチームが勝てなくなり、チーム自体も給料の未払いが発生。選手が練習をボイコットし始め、なんとしまいにはチームを解散!ということになった。

ルーマニアでは、あまりに過酷な生活環境だったため、これで日本に帰れると、内実安心した。1人、海外でサッカーをやること、戦い続けることに、疲れて果て、もうこりごりだとほんとうは感じていた。

だが、帰国することは、愛するサッカーをここで辞める決断と同じだと思っていた。なんとしても海外でやりたいと紹介者に言った手前もあり、なかなか帰る決断を下せず、チームが解散になった後も、ユースチームの練習に参加して、週末は高校生か中学生かわからない子供とチームを組み試合をした。

対戦相手のトップチームにアピールするために、やれることはやりたかった。

同時に、ネットで日本までの航空券の値段を見るのが日課になり、ここをクリックすれば楽になれる、と何度もカーソルをあわせた。でもクリックするまではできない。心と体はすぐにでも帰りたいと言っているのに、頭はそれにイエスを出せない状況が続いた。

そのときたまたま読んだ桜井章一さんの『ツキの正体』という本が心に響いた。人生の方向性だけ見ておいて目標は持つな、好きなことは30%ぐらいの力でやったほうがうまくいくと書いてあった。

心も体も日本へ帰りたいモードだった頭に、この本が響いて、日本に帰る決断をした。

いままで全てのことに全力で100%行うことが、久保田勲であることだと思っていた。それを辞めてしまったら、自分は終わりだ、誰からも愛されないという恐怖が強かった。

しかし、「世界のトッププレイヤーになる」という夢を掲げて、全力で毎日生きることに疲れてしまい、自分の実力のなさをどこかで感じ、それは以上進む力がどこからも出なかった。

だからその本にあった言葉に救いを求めた。

そして帰国した。


アメリカ〜最後の挑戦・・・?!


アメリカ日本に帰ると天国のように思えた。言葉が通じ、ご飯もおいしい、何よりも家族、友人の暖かさを感じた。幸せは目の前に、当たり前にあったことに気づいた。両親との関係も変わっていった。

一方でサッカーの方は中途半端な感じで止まっていた。

なんとか自分のサッカー人生を白黒はっきりさせたいという思いからアメリカにトライアウト(入団テスト)へ行った。20年以上のサッカー人生にけりを付けたかったからだ。

タイ、ルーマニアでは自分の力のなさを痛いほど感じた。海外では、一人で点を取れる選手、一人で守れる選手、外国人としてチームの助っ人となれる選手が求められる。

年齢の問題、外国人という問題、当たり前のことだが、日本でプレーしているときは感じないことをもろに感じた。自分の力はこんなものだと絶望していたにも関わらず、それは感じないようにし、ネガティブな感情や思いはいっさい否定した。

結果は契約できず帰国。

これでダメだったらもうサッカーは辞めようと、出発したアメリカでのトライアウト、帰国するときには、心のもやもやはすこし解消されていた。残念な気持ちもあったが、新たな道への挑戦にワクワクした気持ちが混同していた。

いま思えば偽りの感情で、これでサッカーにけりがついた、と自分をごまかした。


栃木ウーバ教員時代〜迷いの中へ


もう28歳になるし、人生のベースを作ろう。仕事、結婚、子ども。それまで100%サッカーしか考えなかった頭のスペースにそういったことを入れるゆとりが少しずつできた。

経験もあり、安定している学校の先生を選んだ。サッカーはまだ全部辞めるということは出来なかったため、趣味程度に出来ればいいと思い、JFLのアマチュアチームの栃木ウーバに入団。

サッカーのある日々のような刺激はないが、安定しているし、これからは未来のことを考えないとダメだと思い、好きでも嫌いでもなく、楽しくもつまらなくもない世界を選択した。

栃木ウーパ
そうなるとドンドンそういう価値観や仲間が周りに増えた。

居心地の悪さを感じながらもサッカーはもういい、見るのも、するもの嫌だと思っていた。でもサッカーで感じてきた喜び、楽しみ、ワクワクを思い出し、サッカー以外で同じように感じることがないかと探した。

海外に行って生活したおかげで人と話をすることに対しての抵抗はなくなり、時間があれば人にどこにでも会いにいった。はじめはサッカー関係以外の人の話に興奮した。とくにお金を稼いでいる人の話はとても興味を持った。

なぜお金を稼げたのか?どうやってお金持ちになったのか?などたくさん話をきいた。その話を聞いただけで、自分も金持ちになったかのように錯覚して、よーし!これからガンガン稼げるぞ、なんて思ったものだ。

このとき、世界の大富豪のジム・ロジャースさんの宿泊セミナーと本田健さんの宿泊セミナーに参加した。そういう所に来る人と友達になること、そういうお金持ちがどんな雰囲気で、何を考えているのか知りたかった。

人に会い、話をして、何か得るものはないかと欲ばりになっていた。人に会うのがたまらなく楽しくて、人生最高〜!サッカー以外の世界ってこんなにワクワクしたことがあるんだ、なんて狭い世界生きていたんだろうと思った。

そんなある日、仲の良い友人のある一言をきっかけにガーンと心が落ちた。

「それ勲のお父さんがやっているのと同じことだよね」と言われたとき、雷に打たれたようで、本当にそうだ、と気づいてしまった。いままで気づかないようにしていたことを。

自分は父の生き方に対し、いつも疑問を持っていた。

頭では一生懸命サラリーマンをやってくれて僕をここまで育ててくれ、やりたくもない仕事を我慢してやってくれて感謝だ!!感謝!!と思っていたものの、本心では、言葉や態度で、知らず知らずのうちに「俺は父みたいな生き方はしないぞ、嫌いな仕事は嫌だ、好きなことをするぞ、人に上から目線では接しない、自分が正しいとは思ってない」言っていたのだ。

しかし、そんな自分こそ上から目線で、人に自分の考えが正しいと言っていたのだ。

これに気づいたら、なんと4年ぶりに風邪を引いた。少し良くなって走りにいったら、また風邪を引くことを繰り返した。同時に少しずつ気分が落ちて、日に日に心が荒んでいくように思えた。そして周りで起こって行くこともネガティブなものが増えていった。

いろんな可能性を知れば知るほどワクワクしたが、俺は何をするんだ!!という思いが強くなった。いろいろな世界を見ては自分のいる場所はここではないと、学校の先生も辞め、「よし!!やるぞ」といろいろな誘いに乗り、興味のあったことをやろうと思っても、なぜかエネルギーがわかない。

はじめはおもしろそう、と思っても、すぐに違う気がしてくる。

いままであんなに一生懸命にサッカーできたのだから、他のこともすぐにうまくいくし、努力だけは誰にもまけないと思っていたが、サッカー以外ではこのエネルギーは出ないことに気づいた。

自分はいい加減な人間で、どうしようもない。

28歳、無職で、実家に住まわせてもらっている状況。

これからどうしよう、と途方に暮れていたし、実家にいると心がどんどん沈んでいった。